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おばちゃんの裁判と永遠の迷い

     久々の「御射山先生との思い出」です。前回が【この記事】ですから、四年以上開いています。
     平成2年3月に大塚の家を売却しました。これはバブル期の最高高値で売ったことを意味します。で、この大塚の土地は、借地ではあるが祖父が手に入れたもので、祖父の名義になっていた物を、祖父が亡くなって相続問題が起きたとき、長男(私の父)と娘たち(父の妹たち=おばちゃんたち)とに分筆され、おばちゃんたちの方は持ち分三分の一ずつの共有名義になりました。平成2年の大塚売却時、父はすでに亡く、父から母が相続し、私たちの方は母の名義になっていました。これを底地ごと売却したため、代金は、地主さん・わたしたち・おばちゃんたちで概ね三分の一ずつ受け取っています。このお金で私たちは豊島区○○に土地を買い家を建て、次兄一家のために志木のマンションを買ったのですが、おばちゃんたちのほうでトラブルが発生しました。
     どんなトラブルか、詳しくは書きませんが、おばちゃんたちは、大塚を売却したお金で国分寺に広い土地を買い、大きな家を建て、みんなで仲良く暮らすはずだったのに、一緒に暮らし始めたら、何かにつけ折り合い悪く、おばちゃん(いま老人ホームに入ってる)が家を飛び出し、東中野のマンションで一人暮らしを始めた。しかし大塚売却のお金は国分寺の家に化けてるから、これをどうにかしろというものです。新しいお家ができる前に、一番上のFおばちゃんは亡くなっていて、Fおばちゃんが残した物をどうするか。これも揉め種でした。
     この裁判に私が引っ張り出されたのは、裁判が始まってから一年ほど経ってからのことです。この頃の私は、池袋の、とあるビルの三階のお部屋から、開店10時閉店9時の新宿の美容室に通っていて、ときたま家に帰ると、母から「今日は一時間だよ」「今日は二時間だよ」と、おばちゃんの話を聞かされていたのです。要するにおばちゃんは、ほぼ毎日のように母に電話をかけ、もう一人のおばちゃんや、その息子や嫁さんの悪口を延々としゃべってた。そうこうするうちに弁護士の悪口まで言い出したようです。そんなこんなが一年近く続いた頃のこと。私が家にいるときに、電話が入ったので、受話器を私が母からもぎ取って、「私がなんとかする。一度会おう」と言ったのです。そして弁護士や税理士や不動産屋におばちゃんを引き合わせたのです。
     さて、この裁判に関わるようになってしばらくして、四階の御射山先生のお部屋で、
    「おばちゃんの裁判に引っ張り出されて大変だ」
     と、ぼやき、詳細を話したら、
    「いよいよ始まったか。あらかじめ言っておく。この裁判、お母さんもお兄ちゃんも関係ない。弁護士も裁判官も関係ない。お前が出ればまとまる。出なきゃまとまらない。永遠の迷いにハマるだろう」
    「死ぬまで続くの?」
    「バカ。永遠って言ったろう。死ぬまでの、どこが永遠だよ。この裁判はね、平成二年の大塚の家の売却の延長線にある。あれは、お前の才覚でまとめたものだ。あんな芸当のできるヤツいるかよ。お母さんもお兄ちゃんも、おばちゃんたちも、みんなお前にぶら下がってるだけで、才覚なんてないもん。しかし話を聞いていると、勝ち目ないね。こんな話にかかわるなって言いたいところだけど、おばちゃんじゃしょうがないか。そうだ。いいこと教えてやろうか。この裁判、長引けば、こっち有利。さて、長引かすことができるかねぇ」。
     その数年後。四階のお部屋でまた、
    「おばちゃんの裁判がグチャグチャで大変だ」
     と、ぼやいたら、
    「いまなんて言った? おばちゃんの裁判って言った? とっくに潰れてんのかと思った。まだやってんの?」
     その通り。あの裁判、私がいたからなんとかなったんですよ。おばちゃんがいま老人ホームに入っていられるのは、あの裁判で頑張ったおかげ。平成二年に大塚の家を売却したおかげなんですよ。氏族の指名(使命)者のおかげなんですよ。  
  • 2013.01.11 Friday
  • 23:37
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御射山先生との思い出 ┳運旅行

     先日、土曜文学からブログに転載した『宇宙の中心』は、土曜文学に載せたのは2005年だけれども、書いたのは、私がまだ池袋のお部屋から新宿の美容室に通っていて、御射山先生が新宿御苑に引っ越してしまっていた頃のことなので、一昔前なんですね。あの頃、私は0(ゼロ)学の本を出そうかと思って、ゴチャゴチャ書いていて、書いた中に『宇宙の中心』の部分があったのです。0学のほうは、使い物にならないシロモノで本にもなっていませんが、『宇宙の中心』部分は人に読ませるとおもしろがられていたので、土曜文学に載せ、ブログに転載することにしたのです。
     で、『宇宙の中心』には、
    私はいま、東京都豊島区池袋にいます。なんだか最近ロクなことがないのでぼやいていたら、
    「北へ行ったら?」
     と、誰かが私に耳打ちします。
    「北へ行けばいいことあるの?」
    「ああ……」
    「どこまで?」
    「どこまででも……」
     と、書いてありますが、この「誰か」とは御射山先生のことで、御射山先生とこのような会話をしたのは、池袋の、とあるビルの4階の御射山先生のお部屋で、書いたのは御射山先生が新宿御苑に移ってからだけれども、御射山先生とこのような会話をしたのは、それ以前、酉年のことです。したがって、会話内容も事実と少し違うんです。実際は、
    「西へ行ったら?」
    「西へ行けばいいことあるの?」
    「ああ……」
    「どこまで?」
    「どこまででも……」
     という会話内容で、どうせなら西のはずれまで行こうと、山口まで出かけたのです。山口では散々な目に遭いましたが、東京に帰ってきて開運でしたね。これに気を好くし、新潟や北海道に出かけたこともあるのですが、それは別の年のことです。



     母の介護度が上がっているので、いまの私には泊りがけの旅行はできませんが、日帰りの開運旅行をしようかなと思っています。展開が変るかもしれません。
  • 2008.07.29 Tuesday
  • 12:28
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御射山先生との思い出 追跡調査

     0学開祖・御射山先生との思い出の第七弾です。第六弾が昨年6月なので、ほぼ一年ぶりです。

     池袋の、とあるビルの4階の御射山先生のお部屋で、私は御射山先生といろんな話をしたのですが、こういう話しをしたこともあるんです。
    「真理子、おまえは歴史に名前を残すよ」
    「私が歴史に名前を残すの? で、誰のようになるの? 歴史上の人物たって、豊臣秀吉とか、いいろいろいるでしょ。ねっ、私は誰のようになるの?」
    「そうねぇ、いまのままでいくと、この調子でいくと、○○くらいにはなれるんじゃない?」
     誰のようになると御射山先生が言ったのか、○○の部分は内緒にしておきますが、御射山先生にこう言われたとき、私はさほど驚きませんでした。なぜならば、第五弾で書いたように、御射山先生と私の予見が一致したことは多くあって、これもその一つだからです。つまり私は「私は歴史に名前を残す」と自分で分かっていて、人にしゃべってもいたのです。

     いまから30年以上前のこと。とある人に私は、こう言ったことがあります。「私があなたのことを書けば、あなたのところに調査が行くよ。太宰治の伝記だって出ているんだもの、私の伝記が出ないわけがない。伝記なんてのは、出るのは死後かもしれないけど、調査は生きている内から進んでいるものなのよ。少年Aというふうに、私が実名を伏せたところで、「Aとは誰か」が調べられる。そりぁ、家族や親類縁者に迷惑がかかるから、公表は控えるにしても、研究調査はされるものなのよ」と。
      
     こんな話をしてから30年以上たった2006年5月のこと。兄の口から「追跡調査……、国立の……」という言葉が出たことがあります。意味が分からず問いただしても、のらりくらりと兄が言明を避けていたので、ハッキリしたことは分からないままになっています。
     が、ちょうど、救援会豊島支のF子さんからいろんなことを根掘り葉掘り聞かれた頃のことで、F子さんに聞かれたことの中には、「おばちゃんの成年保佐人だった私が、おばちゃんの同意を得ずに入院させたのはおかしいじゃないか」というのもあったので、裁判所の後見監督センターのほかに、後見人を追跡調査する国立の機関があるのかなぁとも思うのですが、そうではなくて、「追跡調査……国立の……」というのは、私の伝記の準備が進んでいるということなのだろうと思います。
     したがって、「F子さんからいろんなことを根掘り葉掘り聞かれた」と書けば、それが調査されるし、「掲示板を宣伝に利用している』と言われている」と書けば、それに調査が入るし、「空巣に入られそうだ」と書けば、それに調査が入ってしまうのです。

     なんで、こんなことを書き気になったかというと、追跡調査について勘違いしている人がいるように思えるからです。
     近々、弁護士Aに再度手紙を書き送ろうかと思っていますが、弁護士Aに渡す前に開封してしまう。メールを寄こす前に誰かに見せてしまうのは、追跡調査ではありません。
     弁護士Aに書き送る手紙の中味も、調査の対象になるだろうけど、それは私も(多分、弁護士Aも)自覚しているので、いずれ時期を見て、調査隊にお知らせしますから、「開封せずに弁護士Aに渡し、誰にも見せずにメールを寄こす」を実践していただきたい。
  • 2008.05.29 Thursday
  • 12:49
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御射山先生との思い出 Σ判

     御射山先生との思い出の第六弾です。
     
     第一弾で書いたように、1987(昭和62)年の5月か6月か7月か……に、私は御射山先生と出会いました。就職の面接だったのですが、その際先生には私の生年月日と亭主の生年月日を聞かれ、私と亭主が一つ屋根の下に一緒にいてはならない関係であることが分かりました。その1987年はウサギ年(0学ではウサギ座と言います)で、ウサギ年ならまだしも、翌年の龍年にかかると惨事を招きかねないので、ウサギ年のうちに家を出るように御射山先生に指導されました。
     御射山先生に言われるまでもなく、亭主と一緒にいることの危険性を私自身が感じ取っていて、「別れよう」「家を出よう」と数年前から思っていて、「いつ」行動しようかと迷っていた折、アルバイト先の本屋さんで細木数子の占いの本を読み、行動を起こすのはウサギ年と私は自分で決めていたのです。
     そしてウサギ年(1987年)の1月に、本屋の奥さんとバブル経済の話やら聖書の話やらを二時間ほどしゃべりこみ、そのすぐあとに退職。3月には弁護士Aのところに面接に行き、一時間しゃべりこんで、再開を約束してそのまま帰り、5月か6月か7月に、御射山先生と出会ったわけです。
     で、亭主と一緒にいることの危険性を感じ取り、「別れよう」「家を出よう」と母や兄に相談しても、母や兄は「どうしたもんかね、困ったね」「待ってろ」だのと言うばかりで、埒が明かない。そこから先に話が一向に進まない。そして家を出ようにも私には当座のお金がない。しかし時は刻々と辰年に向かって流れているわけで、これ以上グズグズしていられないと、敷金だの礼金だの、アパートを借りるのに必要なお金を御射山先生が貸してくれ、私は家出を決行したのです。「月1万円でも5千円でも、働きながら返せばいいから」と、御射山先生には言われたし、私もそのつもりでいたのですが、
    「いろいろ心配かけたけど、アパート借りて引っ越しも済んだし、働き口も見つかったから、もう大丈夫」
     と母に言うと、
    「引っ越した? お金はどうしたんだい? おまえ、お金ないんだろ?」
    「ちょっとね、貸してくれる人がいたものだから」
    「誰なんだい?」
    「ミサヤマっていう占い師」
    「おまえね、親がいるっていうのに、親がいるっていうのに……、知らない男から金を借りるなんて、バカやってんじゃないよ。とにかくその占い師に会わせろ」
     と、池袋の0学院に出かけて行って、そのお金を母が返してしまったのです。母は「親がいるっていうのに、親がいるっていうのに」と言うけれども、親だと思うから散々相談してたんですよ。一番困っているときに、肝心なときに手をこまねいているだけだから、話が他所(よそ)へ流れたんじゃないですか。とは言っても、この一件で、「おまえにお金を借りる力があるのか。人間、そうそう、お金なんか貸しゃしないよ」と、私は母に見直されましたね。
     とにかく1987(昭和62)年のウサギ年には、いろんなことがありました。この年に行動を起こしたことが、いまの私につながっているのですから、0学に出会えて本当に良かったと思っています。

     
  • 2007.06.17 Sunday
  • 05:21
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御射山先生との思い出 ゥ丱屮襪諒壊と共産党の時代

     0学開祖御射山先生との思い出の第五弾です。前回の第四弾が2月6日なので久々です。
     
     池袋の、とあるビルの3階のお部屋から美容室に通うという日々を送っていた私を、用事があれば母は電話で呼び出していました。あれは確か平成元(1989)年の10月か11月か……、その頃だと思います。私の家で、大塚の家を売るという話が浮上し、母と一緒に某不動産会社小石川店に税金相談などに行ったのも、その頃が最初のはずです。
     で、開店10時閉店9時の美容室で働きながら、その合間合間に母に呼び出されて、あっちこっちに出かけるのもシンドイと思っていた、とある日、4階の御射山先生のお部屋で、
    「大塚の家を売るっていう話が出ていて、お母さんからしばしば呼び出されて大変だ」
     と、ぼやいたら、御射山先生に、
    「家を売るって話が出てるの? 売るなら来年の3月までに売りなさいよ。3月を過ぎたら、売りたくても売れないから」
     と言われたのです。つまり先生には、バブル崩壊の時期が分かっていたわけです。
     そして翌年、つまり平成2年の3月に私は大塚の家を売りました。で、その話を御射山先生にしたら、「売った!? 言ったとおりにやる奴、滅多にいない。おまえは自分が何をしたか分かってる? 大変なことをしたんだよ」と驚いていました。そうです。私はバブル崩壊前の絶妙のタイミングで、大塚の家を売ったのです。私名義のものではありませんが、私がいなければ、あのタイミングで売ることはできませんでした。
     御射山先生がバブル経済が平成2(1990)年の3月までで、それを過ぎたら売ろうにも売れなくなると言ったのは、0学から導き出されたものだと思います。しかし私は、御射山先生と出会う以前(1987年)に、数年先のバブルの崩壊を予見していて、崩壊直前に大塚の家を売るだろうと人にしゃべってもいるのです。お店(美容室のこと)のことやら何やらで忙しく、残念ながら御射山先生とは、御射山先生と出会う以前の話をすることが出来ませんでしたが、いずれにせよ、バブルの崩壊を事前に予見していたことでは御射山先生と私は同じでした。御射山先生と私の違いは、御射山先生がバブル経済を平成2年3月までと、時期を予見したのに対し、私は何年何月という時期を予見したのではなく、崩壊直前に家を売るだろうと言ったことです。
     で、御射山先生が0学によって予見したことと私の予見が一致したのは、これだけではなく、まだまだあって、「これからは共産党の時代」というのもその一つです。たどる道・方法は違っても、御射山先生と私の予見が一致しているなら、これからは共産党の時代でしょう。

     ところで、ネットでも流れていることですが、細木数子の占いは0学からの盗作ですね。これを苦々しく思っている人は0学関係者の中に多くいます。私はいま救援会の会員で、共産党の人たちとのお付き合いが多く、なかには弁護士もいます。以前、御射山先生は「共産党の弁護士なら優秀だ」と言われていました。いまの私なら、共産党の弁護士を御射山先生に紹介できるんですけどね。残念です。
     私がこのブログに御射山先生との思い出を書いたら、とある人からメールをいただいて、御射山先生が2001年に亡くなったを知りました。この方と近々会うことになっています。その際、細木の話は出るでしょうか。0学会にいまでも弁護士は必要でしょうか。私で役に立つことはあるでしょうか。お会いするのが楽しみです。
  • 2007.06.04 Monday
  • 05:34
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御射山先生との思い出 て大板橋病院婦人科

     2003(平成15)年の10月に、私は日大板橋病院の婦人科に入院して手術を受けました。その際、担当のT先生がパソコンを見ながら、「以前、一度来てますね」と言われたのですが、私には何のことだかサッパリ分かりませんでした。「こんなところに来たのは今回が初めてだ」と、その時は思っていたのです。ところが、日記にも書いたように、昨年の5月、他のことが何も手につかないくらい物思いにふけって、ずっと長い間忘れていた「カルテの裏側の走り書き」のことなどを思い出したとき、日大板橋病院の婦人科に、以前にも行っていることを思い出しました。
     何年何月何日のことかは記憶にありません。が、それが祝祭日であることは間違いありません。なぜならば、その日、私は池袋の、とあるビルの3階のお部屋で朝方から具合が悪くなり、起きるに起きられなくなっていまいました。横になっていれば楽になるかと思って様子を見ていたのですが、楽になるどころか猛烈に左腹部が痛み出したので、「体調が悪い。これから医者に行く。また電話する」と職場の美容室に電話をかけ、4階のお部屋で寝ている御射山先生をたたき起こし、「救急車でもタクシーでも、なんでもいいから病院に連れてって」と頼んだのです。
     タクシーで近所の病院に行ったものの、「今日は休みで人がいないから、大きいところへ行ってくれ。この辺だと日大板橋。あそこなら間違いなく人がいるから」と言われ、タクシーに乗りなおして日大板橋の救急室に行きました。タクシーの中でも私は悲鳴を上げていたし、救急室の待ち合いのベンチでも悲鳴を上げていたのですが、どういうわけか、私の番が来る直前に、痛みが消えてしまいました。しかしここまで来て、受付まで済まして、黙って帰るわけにも行かないのでドクターの前に出ると、「これまでに卵管がねじれてるって言われたことありますか?」と聞かれました。「あります」と答えたら、婦人科へ行くように言われ、婦人科で診察を受けたのです。婦人科では問題がなく、また救急室に戻って、こんどは尿検査をしました。結局、石。尿路結石だったのです。悲鳴を上げるほどの痛みが急に消えたのは、石が膀胱に落ちたからということでした。
     で、どうしてこの話を、昨年5月に「カルテの裏側の走り書き」などを思い出したときに思い出したかというと、「この間、大変だったのよ」と、池袋の歯科医院でこの話をしていることを思い出したからなのです。
     この話を歯科医院でしたのがいつなのか。日にちを特定することはいまの私には出来ませんが、私はその歯科医院で奥歯の矯正をしていて、矯正の先生が来ていたのは月曜日だけだったので、御射山先生に日大板橋病院に連れて行ってもらった直後の月曜日だろうと思います。
     歯科医には、池袋のお部屋のことも0学のことも御射山先生のことも話していないので、「みんなが先生、先生と呼んでいる人に日大板橋に連れて行ってもらった」というふうに話しました。2003(平成15)年の10月に、日大板橋病院婦人科に入院したときT先生が、「以前、一度来てますね」と言ったのは、このことだったのです。

     2003(平成15)年の10月に日大板橋病院婦人科に入院した際、「お見舞いに来て。早くしないと退院しちゃうから、早く、早く」という手紙を、私は病院から弁護士Aに書き送っています。あの手紙は弁護士Aに届いたのでしょうか。何だかサッパリ分かりませんけど。
  • 2007.02.06 Tuesday
  • 17:15
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御射山先生との思い出 歯医者と居酒屋

     平成2年3月に大塚の家を売ってから、私は歯医者に通うようになります。私の歯はガタガタで、ちゃんと治すとなると、時間もかかるしお金もかかることは自分で分かっていたので、歯医者選びは慎重にと母に相談してみました。
    「真理子が歯を治したいって言っている。良い歯医者ないかしらねぇ」
     と、四谷で薬局を開業している学生時代からの母の友人Nさんに母が話したら、
    「歯医者なら東京医科歯科。あそこいいよ。私いつもあそこだよ」。
     というわけで、私はお茶の水の東京医科歯科大学歯学部病院に通うことになりました。
     ああいう大きなところは、虫歯を治す科と、義歯を扱う科と、科が分かれていて、私はまず虫歯を治すことになりました。予約が詰まっていて私の番になるまで半年待ちました。半年待って半年通って虫歯の治療を終え、こんどは義歯の科に移るのですが、ここでは向こう3年予約が詰まっていて、3年待つと言われたので、開業医を紹介してもらうことにし、紹介してもらったのが東池袋の歯科医院でした。東京医科歯科では、「お金のことでもなんでも、何か問題が起きたら一人で抱えていないで、こちらに相談してください」と言われ、これなら安心と、池袋の歯科医院に通うようになりました。通い始めると私の場合、義歯を入れるには、その前に奥歯を矯正する必要がありました。
     私が勤めていた美容室は、新宿のショッピングセンタービルの中に出店していて、私は一日に2回、ビルの社員食堂で食事をしていました。
    「最初のうちは食事のときに痛むので、お粥のような柔らかいものしか食べられなくなりますが、一ヶ月ほどで痛みは治まります」
     と、あらかじめ矯正の先生から説明を受けていたので、驚きはしませんでしたが、社員食堂のメニューにお粥のような柔らかいものはなく、矯正を始めてみると本当に食事に困ってしまいました。それで思いついたのが居酒屋でした。なめこおろし・シラスおろし・冷奴・アジのたたき・イワシのたたき・お茶漬け……など、居酒屋には噛まずに飲み込める柔らかいものがあるはずで、一日分の栄養を居酒屋で補給しようと思いついたのです。
     一人で飲み屋に入るなんてことしたことないので不安はありましたが、御射山先生が4階にお部屋を借りていて、私も3階に借りていた、池袋の、とあるビルの1階に居酒屋があり、ここなら4階に御射山先生もいることだし安心と、思い切って入ってみました。矯正の先生から、「一ヶ月くらいで痛みは治まる」と説明を受けていたので、普通の食事が取れるようになったら居酒屋通いは止そうと思っていたのですが、もともと飲むも食べるも作るも大好きで、飲み屋のママをしながら文豪になりたいと、人にしゃべっていたこともある私ですし、社員食堂の夕食が午後4時半からで、9時10時になるとまた何か食べたくなってしまって、止められなくなってしまいました。
     しかし御射山先生が池袋から新宿御苑に移ってからは、新宿の美容室での仕事を終えてから池袋に帰るのではなく、新宿御苑の御射山先生のところに、相談に行ったり遊びに行ったりするようになったので、この居酒屋からも足が遠のくようになりました。やがて私自身が美容室を退職し、我が六畳間のある我が家に落ち着き、母に代わって台所のことをしたり、文学学校に通ったり、えん罪の支援をしたり、また歯医者に通ったり……池袋では救援会の仲間と飲むようになります。

     日記にも書いたように、昨年5月、私はほかのことに何も手がつかないほど物思いにふけり、長いこと忘れていた「カルテの裏の走り書き」のことなどを思い出しました。その5月に、10年ぶり、あるいはそれ以上かもしれません。私は久しぶりに、とあるビルの1階の居酒屋のマスターを見かけました。昨年5月25日の木曜日のこと。池袋西口布川事件駅頭宣伝で、のぼり旗を立て、ゼッケンをつけ、ハンドマイクで宣伝しながら、ビラを配っている私たちを、この居酒屋のマスターが珍しそうに遠くから見ていたのです。声をかけようかと思ったのですが、私には仲間もいることだし、「あの人、誰?」と仲間に聞かれても話が長くなって困るので、声をかけるのは止め、仲間といつものお店に行きました。
     とあるビルの1階のお店がなくなっているのは知っています。あのマスターは、いまもどこかで居酒屋をしているのでしょうか。どうなんでしょう。
  • 2007.01.31 Wednesday
  • 19:30
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御射山先生との思い出 池袋のお部屋

    過去記事「御射山先生と思い出 ―于颪」で書いたように、私は昭和62(1987)年に0学開祖の御射山先生との出会い、御射山先生の紹介で美容室で働くようになりました。
     で、開店10時閉店9時の美容室で働きながら、空いた時間に歯医者に通ったり、本を読んだり、数学を勉強したり、大塚の家を売ったり、新しい家に引っ越したり、おばちゃんの裁判に引っ張り出されたり……していたのですが、私は0学のお勉強もしていたんです。御射山先生とは、
    「私がテレビに出たら、売れっ子占い師になれる?」
    「なれるさ!」
     という話をしたこともあります。こういう話をどこでしていたかというと……池袋の0学院から徒歩5分ほどの、とあるビルの4階の御射山先生のお部屋です。
     0学院では、昼間は教室で生徒さんに授業をし、お客さんの相談は夜になることが多かったようです。私が御射山先生を訪ねるのも、夜9時に美容室を閉め、レジを閉め、私服に着替えてからなわけで、どうしても10時近くになってしまいます。私ばかりでなく、そういう時間に御射山先生を訪ねるお客さんは多いようで、そういうお客さんが帰るのは午前0時、1時なので電車が止まってしまう。タクシーで帰宅していたこともあるけれど、度重なるとタクシー代も馬鹿にならない。0学院教室・事務所のソファで寝ることは出来ても、風呂はどうする? ……というわけで、池袋の0学院から徒歩5分ほどの、とあるビルの4階に御射山先生がお部屋を借りたのです。そして御射山先生の指導で、同じビルの3階に私もお部屋を借りました。私の場合も、夜の9時10時まで新宿で働き、それからお店の相談や0学の勉強で御射山先生を訪ねると、終わりは午前0時1時になってしまうから、やはり御射山先生のそばにいる必要があったんです。
     御射山先生は結局、4階のお部屋と0学院の、徒歩5分の往復も億劫になり、教室・事務所と寝泊りするお部屋が一緒の新宿御苑のマンションに移ってしまいました。
    「真理子も新宿においで」
     と、誘われたこともありますが、私は新宿には行きませんでした。次兄が亡くなって母が落ち込むようになり、母に代わって私が台所をする必要が出てきたこともあって、私は美容室を退職し、我が六畳間のある我が家に落ち着くことになります。

  • 2007.01.25 Thursday
  • 14:32
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御射山先生との思い出 ―于颪

     私と0学開祖の御射山先生との、そもそもの出会いは1987(昭和62)年の7月頃だと思います。
     1987(昭和62)年といえば、この年の1月某日にアルバイト先の本屋の奥さんと、バブルのことやら学生時代のことやら聖書のことなど、二時間ほどしゃべりこみ、その数日後にこの本屋を退職しています。こんどは3月某日に、弁護士Aのところに就職の面接に行って、一時間しゃべりこみ、再会を約束してそのまま帰ってしまいます。
     そして御射山先生との出会いもやはり就職の面接でした。たしか読売新聞だったと思います。御射山先生が求人欄に求人広告を出していて、それを読んだ私が池袋の0学院教室・事務所に出かけて行ったのです。その年の1月までアルバイトをしていた本屋さんでは、ちょうどバブル期でもあり、長谷川慶太郎などの本も売れていましたが、細木数子の占いの本も売れていまして、「これは当たる」と思っていたし、もっと占いを勉強したいとも思っていたので、0学の求人広告を見たとき、私は迷わず面接に行きました。
     結局、0学院では働かず、御射山先生の紹介で美容室で働くことになりました。御射山先生はこの美容室の顧問で、オーナーばかりでなく歴代の店長が、人事のことや改装のことなどを御射山先生に相談していたのです。私も美容室で働きようになってからは、お店のことを相談していました。が、0学そのものも魅力あるもので、御射山先生のそばにいて多くを学ばせていただきました。
     
    今回はここまでです。また書きます。
  • 2007.01.13 Saturday
  • 19:48
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