「長崎原爆記」と「体質と食物」(秋月辰一郎)

     

     秋月辰一郎さんの「長崎原爆記」と「体質と食物」を読み終えました。なお私が読んだ『長崎原爆記』は平和文庫のものではなく、「日本の原爆記録 9」(日本図書センター)収録のもので、以下引用ページはこれによります。

     私に差し迫った問題としてあるのは、両親から耳がタコになるほど聞かされている東京大空襲なので、広島長崎のことは、これ以上追いかけないと、井伏鱒二さんの「黒い雨」の感想文で書きましたが、秋月辰一郎さんの著書だけは別格です。
     癌で亡くなった人が生前書いていた手記・闘病記のようなものは、読んでいるだけで免疫力が下がるから読まないほうがいい。読むならば、癌を克服し、癌から生還した人が書いたものを読めと、ネットで読んだことがあります。そういう意味合いで秋月さんのものは別格なのです。

    「長崎原爆記」 
     秋月さんはお医者様で、昭和20年8月9日に勤務先の長崎の浦上第一病院で被爆しています。浦上第一病院は爆心地から1800メートル離れていてピカドンの威力は減っているとは言え、病院は猛火に包まれます。
    私はふり向いて病院の大屋根を見上げた。病院は煉瓦の鉄筋コンクリート建てだが、大屋根は日本式の勾配をもった瓦ぶきであった。その大屋根の中央が二段破風づくりである。その破風の棟の一端がほんのわずかくすぶっている。炊事の煙ぐらい、くすぶっている。
    ――中略――
     病院の火はそれから次第に燃えひろがった。大屋根から発火したのは不思議というほかない。おそらく新型爆弾が投下された瞬間、その周囲の空気は爆心地で数千度、病院付近で何百度にもなるのだ。爆心地より千五百メートルまでの木造建物は、ただちに発火して大火災になった。爆心地より千メートル以内の土地は、鉄でさえも燃焼した。
     病院は、爆心地より千八百メートルのところにある。大屋根にほんのわずかの火が出た。十数日続いた日照りに、いままた何百度もの熱風に吹かれ、病院は薪のように乾燥して、火を吹いたのだろう(276頁)。

     井伏さんの「黒い雨」には、被爆者の救助看護のために広島入りした無傷で元気な人たちが、次々と原爆症で亡くなることが多々あったと書かれています。長崎も同じで、病院の焼け跡で被爆患者の救助や治療を行ったにもかかわらず、秋月さんとともに働いた従業員の中に、原爆症で倒れた人がいなかったのは、玄米とワカメの味噌汁によるものと秋月さんは確信し、書き残されているのです。
    「長崎原爆記」は原爆記ですから、味噌汁のことばかり書いてあるわけではありません。8月6日に広島に落ちた新型爆弾の噂はすでに長崎にも届いていました。9日朝、ピカドンにやられたときは、病院が直撃弾を受けたのかと思いますが、直撃弾を受けた割には皆軽傷で、不思議に思っていたところ、眼下の長崎市内は火の海で、自分たちは新型爆弾にやられたのだと気がつきますが、この新型爆弾が原子爆弾というものであることを知るのは、もう少し後のことです。

    八月十三日ごろに、菊花の御紋章入りのビラが大学の教授たちの手に入った。それは米軍が空からまいたものである。【日本のみなさん、広島、長崎に投下された新型爆弾はおそろしい原子爆弾です。天皇陛下にお願いして一日も早く降伏して下さい】
    ――中略――
     原子爆弾だったということが、やっと分かった。日本人が、大衆が、バケツで水をかけたり、竹槍をけずったり、芋の買い出しをしたり、そうしているうちに、米国で原子爆弾が作られていたのである。
    ――中略――
     これまで私は、全身火傷、ガラス創、木材・煉瓦による挫傷の治療にばかり当たった。しかし、新しい疾病にぶつかる。これらの症状は、ある場合には全く無傷であったのに忽然として起こった。しかも、一、二日のうちに、症状が激化して患者は死んでしまう。ある人には、四、五日から一週間と、徐々にそれらの症状が現れて死ぬのである。
     きわめて迅速に、急性に現れて死に至るものを激症とし、中等度症、さらに死ぬまでに至らしめないものを弱症とする。激症から弱症まで千差万別、実にその人の抵抗力、年齢によって雑多であった。ただはっきり言えることは、爆心地からの距離に比例して照射の量がきまるということであった。
     爆心地は明瞭ではなかった。しかし本尾町、橋口町、浦上天主堂の付近、上野町の人びと、彼らは、私の見たところ激症であった。信愛女学園(常清女学校)の修道女たちもみな激症、本原町一丁目付近の人びとは、これについで症状が激しかった。火傷や、傷の手当にばかり専念していた私は、ここで放射能症、原爆症を考えねばならなかった。

     私、婦長、岩永修道士、村井看護婦なども、八月十五日頃から疲労が加わってきた。私ははじめ、「野宿は疲れるものだ」と思い、一週間近く病院の庭にごろ寝したことを、全身叩かれたような疲労の原因と考えた。私は放射能症、原爆症を知らない。しかし、ここで自分の身体の疲労や自覚症状を考えてみた。私はかつて、長崎医大付属病院の永井助教授が部長をしていた放射能教室に、一年間、助手として勤務したことがある。
     X線の診断治療をした時に、「レントゲン宿酔」という症状があった。子宮癌、乳癌の転移巣にX線深部治療をする。一日、二日と連続して照射すると、患者は一種の病的症状を起こす。これは「レントゲン宿酔」(レントゲン・カーター)と呼んでいた。当時医師不足で診療数が多く、私は疲労していた。一日に二人、三人と消化管のX線透視をする。月曜日から始めて金曜日まで診療を続け、土曜日は休み、整理とか抄読会をする。私は生来虚弱体質だったせいもあるが、金曜日ごろになると何だか気分が悪くなった。「ああ、それはレントゲン・カーターだ」と先輩から教わった。
     八月十五、六日ごろ、私は自分の症状が、このレントゲン・カーターに酷似していることを明瞭に自覚したのである。
     レントゲン放射線は、古典的物理学の言い方をすれば、波長のきわめて短い電磁波である。人間の細胞を透過する。しかしラジウム放射線と同じく、多量であれば人間の細胞を破壊する。レントゲン放射線に破壊される細胞は、分裂が盛んに行われる組織細胞である。幼弱細胞、生殖細胞、骨髄細胞――とにかく生命現象の営みの盛んな細胞は、レントゲン放射線によって壊死する。
     私はここまで原爆症を理解した。しかし原子爆発がいかなる放射線を生ずるか知らない。「ラジウム放射線か、レントゲン放射線、ガンマー線、そんな放射線だろう。その放射線が人間の造血組織、骨髄組織を破壊したのだろう。だから紫斑病みたいな患者が多いのだ」私の診断と推理はここまであった。
     私には血球計算器もなく、血球染色して顕微鏡で見る余力も装置も全くなかった。ただ想像と推理だけであった。私はさらに「レントゲン宿酔」の治療法を思い起こした。かつて私は、レントゲン教室で患者がカーターになったり、自分がカーターに苦しんだとき食塩水を飲んでいた。生理的食塩水より少しよけいに塩分を含んだ塩水の飲用を患者にも命じた。そうすると私自身、気分がよくなった。それは当時、レントゲン教室で研究し、働いていた人びとの常識であった。
    「爆弾を受けた人には、塩がいいんだ。塩が、効果があるんだ」
     私に、新しい生物物理学、原子生物学の知識はない。書物や論文はなにもない。それでもこの秋月式の栄養学に信念を持ってきた。秋月式栄養学=ミネラル栄養学である。この時のミネラル栄養学を端的に表現するならば、食塩、ナトリウムイオンは造血細胞に賦活力を与えるもの、砂糖は造血細胞毒素ということになる。
     この考え方は、私が長崎医大の放射線教室にいた時、患者や医師や技術者にしていたレントゲン・カーターの治療に一致する。そしていま、この原爆症にも私のミネラル栄養論がそのまま役に立つのではないか。私の胸中に信念にも似たものが湧然とわいてきた。「玄米飯に塩をつけて握るんだ。からい、濃い味噌汁を、毎日食べるんだ。砂糖は絶対にいかんぞ!」
    ――中略――
     この時の私にひらめいたミネラル原爆症治療法は、私自身と、周囲の私を信ずる人びとの間には行われた。
     その後、永井先生のビタミンB1・葡萄糖論の治療法。長崎医大影浦教授の「柿の葉煎汁療法」のビタミンC大量法。あるいは酒、アルコール治療法など種々の原爆病治療法が現れた。
     しかし私は、このミネラル治療法のためこれまで生きながらえ、元気に病院で医師として働いてこれたのだと信じている。私はきわめて虚弱体質であり、千八百メートルの距離で原子爆弾を受けた。致死量の放射能でなかったのかもしれない。しかし私や岩永修道士、野口神学生、婦長、村井看護婦その他の職員や、入院患者は、被爆の廃墟の死の灰の上で、その日以来生活したのである。
     その人びとが、もちろん疲労や症状はあったであろうが、それを克服して元気に来る日もくる日も人びとのために立ち働き、誰もこのために死なず、重い原爆症が出現しなかったのは、実にこの秋月式の栄養論、食塩ミネラル治療法のおかげであった。
     私とその周囲の人びとは、それを信じている。学会ではたとえ認められなくとも。(350頁〜357頁)


    「体質と食物」
     で、ほとんど味噌汁のことばかり書かれてあるのが、こちらの「体質と食物」です。
    食養生、食物の研究を巡りめぐって、味噌にたどりついた。味噌は、日本人の食物のかなめであると知った。これは、日本の国土、日本人の体質によって受け継がれた伝承のものである。
     ある思想家がプラトンからスコラ哲学、カント、へーゲル、マルクス、ベルグソンを遍歴して道元、親鸞に帰したのに似ている。
     味噌は科学以前のもであった。しかも科学によって証せられるものである(2頁)。

     秋月さんは、もともと多病虚弱で、これを克服しようと医学を志したのですが、現代行われている治療医学が、多病虚弱の秋月さんを満足させないと悟ります。
    戦争中であって、国内に医師が不足していたので、私は三ヶ月の安静をしたのみで、病床を脱した。そして医師として働き出した。結核であったにもかかわらず軍隊に入隊したり、原爆に被爆したりした。その間、相当以上の無理をした。病弱であったが、わかめと揚げを実とした味噌汁が私の身体の要であるから、自分の病巣は悪化しないという確信があった。
     また事実その通りでもあった。
     昭和二十年八月九日の原子爆弾は長崎市内を大半灰燼にし、数万の人々を殺した。爆心地より1.8キロメートルの私の病院は、死の灰の中に廃墟として残った。私と私の病院の仲間は、焼け出された患者を治療しながら働きつづけた。
     私たちの病院は、長崎市の味噌・醤油の倉庫にもなっていた。玄米と味噌は豊富であった。さらにわかめもたくさん保存していたのである。
     その時私といっしょに、患者の救助、付近の人びとの治療に当たった従業員に、いわゆる原爆症が出ないのは、その原因の一つは、「わかめの味噌汁」であったと私は確信している。
     放射能の害を、わかめの味噌汁がどうして防ぐのか、そんな力が味噌汁にどうしてあるのか。私は科学的にその力があると信じている。
     もし人体実験が許されるのなら、実験してもよろしいとさえ思っている。
    ――中略―― 日本人にとって、味噌は特に良質の油脂とミネラルの供給源であるから、私たちの放射能の害を一部防御してくれたのである。この一部の防御が人間の生死の境において極めて重要なのである(21頁〜24頁)。

     味噌汁を食べ始めたからといって、すぐに病気に効くものではない。副腎皮質ホルモン、抗生物質のように今すぐ効果のあるものではない。
     毎日欠かさず味噌汁を食べていると、体質がいつの間にか、病気に負けない体質になっているのである。薬の効きやすい身体になっているのである(28頁)。

  • 2015.11.02 Monday
  • 19:06
  • 本・映画
  • comments(0)
  • trackbacks(0)

    

スポンサーサイト

  • 2017.07.25 Tuesday
  • 19:06
  • -
  • -
  • -

    
コメント
コメントする
(承認制です)








   
この記事のトラックバックURL
トラックバック
(承認制です)