「はじめての宗教論」(佐藤優著 NHK出版 生活人新書)


    論壇の雄にして「知の怪物」による究極の入門書、ここに登場!

    合理的な「見える世界」が支配するこの時代。しかし、人間の「見えない世界」への関心と結びつき、スピリチュアル・ブームから政治の領域まで、宗教は様々なところに顔を出す。キリスト教神学に照準し、聖書の正しい読み方から神学的思考の本質までを明快に解説。21世紀を生き抜くための知的体力が身につく、著者渾身の書き下ろし!
    アマゾンより

    ★ ★ ★


     佐藤優さんの「はじめての宗教論 右巻」の感想を書きます。
     アマゾンの記録によると、私がこの本を買ったのは2010年1月5日です。発行が2009年12月10日だから、間もない頃に買ったことになりますが、読み始めてみると、もーのすごくつまらなかったので、私は最後まで読まずに放り投げてしいました。本来なら、これっきりになるところ、山崎行太郎さんが、哲研やブログでしばしば佐藤優さんの名前を出すので、再度読み返して感想をブログに書くことにしました。

     本書は右巻と左巻から成っていて、私の手元にあるのは右巻だけです。この右巻の序章(30頁)に、
    私は本書で、プロテスタントの視点からはこういうふうに世界が見えるということを正直に述べます。私と違う考えをもち、私と違う視点の人も、とりあえず私の話に付き合って、この船に一緒に乗ってみてください。−略−最後までお付き合いいただければ幸いです。

     と、書いてありますが、やはり今回も、最後までお付き合い(読み通す)する気にはなれませんでした。
     アマゾンのレビューで高く評価されていたので、私はそれに引かれて買ったのだと思いますが、私が本書を購入した2010年1月5日時点では、アマゾンには高評価しかなく、批判的なレビューが出てくるのは、2010年1月16日以降のことです。
     その批判的なレビューには、私が感じたこととほぼ同じ事が書いてあります。

     私は佐藤さんが本書を誰に読まそうとしているのか分からないんです。「渾身の書き下ろし」という商品説明になっていますが、「役に立つ神学」というタイトルで「月刊プレイボーイ」に連載されていたようです。ということは、「月刊プレイボーイ」の定期購読者向けに書いたのでしょうか。プレイボーイの愛読者のなかにも、宗教に関心のある人や救済を求める人はいるでしょうけど、なんだか素人相手にムチャクチャ書いてるような気がします。

     私は日本聖書協会の引照つき新共同訳聖書を2011年7月に買っています。実はこれ、本書の中で佐藤さんが、聖書を正しく読むには、聖書は引照付きがいいと言われているので買ったのです。本書自体は、聖書や哲学書や神学書の引用につぐ引用で、話の進め方も脱線につぐ脱線で、佐藤さんが何を言いたいのかつかめない。こんなものを読み進めるくらいなら、聖書を真っ直ぐに読んだほうがいいと思ったからなのですが、私の手元には引照なしの口語訳聖書があるだけだし、池袋の大型書店でも聖書は取り扱っているけれども、引照付きはなかったので、銀座の教文館まで出掛けて行ったのです。

     ではここで、佐藤さんオススメの引照つき新共同訳聖書で確認を取りながら、佐藤さんのムチャクチャぶりを示してみたいと思います。
    『第2章 聖書の正しい読み方』の『「人はパンのみに生くるにあらず」の意味』(62〜63頁)に、こう書いてあります。
    たとえば「人はパンのみに生くるにあらず」というのは結構有名なフレーズですね。これは通常の解釈では、人はパンだけで生きるのではなく、何か精神的なもの、宗教的なものに頼って生きていることになる。物質的世界と精神的世界という二元論で捉えられている。しかし、この読み方は完全に間違いです。なぜならば、この部分は旧約聖書の「天からのマナ」というところのコンテクストで言われているからです。
     モーセがエジプトを抜け出して、エジプトで捕虜になっていたユダヤ人たちを連れてシナイ半島を歩いているときのことです。食べ物が全部なくなると、天からマナというものが降ってきた。そのマナというものを食べて命をつなぐことができたということです。マナは乾燥地帯の植物に付着した昆虫の分泌物が結晶化したものとされています。
     引照付きの聖書を見ると、イエスはこの箇所との関係において「人はパンのみに生くるにあらず」と言っていることがわかります。これはどういうことかというと、パンがなくても神様が「天からのマナ」のような最低限必要な食べる物を与えてくれるので、人間は生きていくことができるということです。フーテンの寅さんがよくタコ社長に言う「稼ぎに追いつく貧乏なし」と同じことで、人間はカネがないとか、食い物がないとか言っても必ず食っていくことができるということ。つまり、徹底した物質の世界の話なのです。
    「はじめての宗教論 右巻」62頁〜63頁

     まず、「人はパンのみに生くるにあらず」というフレーズは、新約聖書のマタイ福音書4章4節に出てきますが、マタイ4章4節には、こう書いてあります。
     イエスはお答になった。(x)「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」
    (マタイ 4:4、  新約聖書 新共同訳4頁 口語訳4頁)

     そして(x)が指す旧約聖書申命記8章3節には、こう書いてあります。
     主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。(f)人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
    (申命記 8:3、 旧約聖書 新共同訳294頁 口語訳258頁)

     そして(f)が指す旧約聖書申命記32章47節・旧約アモス書8章11節・新約マタイ4章4節には、こう書いてあります。
     それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。
    (申命記 32:47、 旧約聖書新共同訳335頁 口語訳297頁)


    見よ、その日が来ればと 
    主なる神は言われる。
    わたしは大地に飢えを送る。
    それはパンに飢えることでもなく、
    水に渇くことでもなく、
    主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
    (アモス 8:11、旧約聖書 新共同訳1440頁 口語訳1277頁)

     
     イエスはお答になった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」
    (マタイ 4:4、  新約聖書 新共同訳4頁 口語訳4頁)

     上記聖書引用から、「人はパンのみに生くるにあらず」の意味が、「稼ぎに追いつく貧乏なし」と同じことで、人間はカネがないとか、食い物がないとか言っても必ず食っていくことができるということ。つまり、徹底した物質の世界の話になるでしょうか。
     池袋の大型書店でも引照付き聖書は買えなかったので、私は銀座の教文館に出掛けましたが、プレイボーイの愛読者が、佐藤さんの記述を確認するために、教文館まで行くとは思えない。要するに、素人相手にムチャクチャ書いてるんじゃないかと思うのです。
     そうではなくて佐藤さんが、大学の神学部で学ぶ人に読まそうとしているなら、失敗と思います。神学部の学生の周囲には、神学部の先生がいるし、神学部に進む人ならば、牧師のいる教会にも通っているはずなので、佐藤さんがムチャクチャ書いているのがバレちゃうんですよ。それとも同志社の先生方はみなさん、このように学生を指導しているのでしょうか。
     キリストって、暴風を止めたりしていますが(マタイ8:23〜)、「こういうことって本当にあったんだろうか」と、牧師の間で議論しているようだから、教会の牧師もあまりあてにはなりませんが、それでも、吹けば飛ぶような小さな教会の牧師でさえ、こんなムチャクチャ言いません。もう少し傾聴に値する話をしています。この「傾聴に値する話」というのが「主の言葉」「神の口から出る言葉」で、これを求めて人々は教会に行ったり聖書を読んだりしているのではないでしょうか。なんだか私、教会に行きたくなってきましたよ。

     これくらいにしておきますが、引照付き聖書はアマゾンでも買えますね。↓
     



  • 2016.07.06 Wednesday
  • 12:04
  • 本・映画
  • comments(0)
  • trackbacks(0)

    

スポンサーサイト

  • 2017.06.27 Tuesday
  • 12:04
  • -
  • -
  • -

    
コメント
コメントする
(承認制です)








   
この記事のトラックバックURL
トラックバック
(承認制です)