変容?

     この記事で「私の身に何が起きたのかを私は誰かから説明してもらいたいんです」と書きましたが、なかなかその機会がありません。いろいろ本を自分で読んだほうが手っ取り早いんで読んでいます。
     さて、私はこれまでしばしばブログに「弁護士Aに黙示録の光を見せた」と書いてきました。聖書によると、ヨハネに光を見せたのは『みつかい』です。だから私は自分ことを『みつかい』なのかもしれないと思っていました。
     しかし「東方正教会」のP32を読んで、「私の身に起きたことは変容なのかもしれない」と思うようになっています。
     ロシアで『フィロカリア』(真理子注:祈祷と修行のための聖句集)がひろまったのも、あながち偶然ではなかった。というのも、教会は、すでにさんざん痛めつけられ、《ただ必要なことだけ》(祈祷と斉。ルカ10:42)に注意を向けていたからである。―中略―このように、地方では熱心な信仰運動がめばえ、一方で『フィロカリア』が普及し、この二つの動きの交点に近代正教会の偉大な《変容者》、サラフの聖セラフィームが立っている。彼は、修道士、平信徒の別なく、すべての魂の指導者であり、《聖霊にみちあふれた》預言者であった。修道院は改まり、「スターレッツ」(長老)たちが神のことばをのべ伝える場所となった。長老たちは、従来、修道士だけのものであった静寂主義を一般信徒にもわかちあたえ、ピョートル大帝の諸改革によってできた教会と知識人とのあいだの深いみぞを埋め始めた。

     キリストの変容 キリストの《変容》〔マタイ17・1−13。マルコ9・2‐13。ルカ9・28−36〕になぞらえて、この名がある。セラフィームの場合、神の光は実際に目に見える光となり、彼の体をすっかり変えてしまったと伝えられる。(「東方正教会」P32)
     キリストの栄光が、肉体と衣服をつらぬいてあらわれたのは、タボル山〔キリストが変容されたと伝えられている山(マタイ17・1−9)においてだけである。〕(「東方正教会」P66)

     静寂主義者 主の御名と憐みをこう祈りの反復や呼吸訓練などの禁欲的修行によって、神との神秘的な合一をはかる修道士たちのこと。10世紀ごろから見られ、14世紀にビザンツの聖アトス山の修道院を中心に盛んになった。(「東方正教会」P8)


     わたしが自分の事をキリストのように変容したと書くと、冒涜と思う方、おられるかもしれませんが、変容するのはキリストに限ったことではないので、セラフィームのように変容したと言い変えることができるかもしれません。で、キリストが変容したのはマタイ17・1−9のタボル山においてだけだそうで、私もこれまで、池袋の歯医者を階段を上るように天国に連れて行ったり、神風起こしたりしていますが、黙示録の光を見せたのは(変容?したのは)、弁護士Aとの一件だけです。
  • 2017.04.13 Thursday
  • 21:10
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